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Douglas DC-4 日本航空 白馬号


(昭和31年・1956年撮影)

このところ両親のアルバムを整理していて、この前は昭和30年代の
「環状七号線」の写真を載せました。

今回は父が羽田空港で撮った航空機の写真です。
分かりにくいですが、機首に「白馬」とあります。

20190430161338ac9.jpeg 

金持ちか一部のエリートしか乗れなかった飛行機。
国際空港化し、初代ターミナルビルが完成して、庶民である父も
羽田空港に行ったものと思われます。

それにしても、カラー写真はアルバムの中で退色著しいけど、
白黒写真はまったく色あせていない。
父の小・中学校時代の写真もほぼ退色なし。
モノクロは凄い!



[ 2019/04/30 16:17 ] その他 | TB(-) | CM(4)

昭和30年代の「環七通り」


このところ雨や寒い日が続いていて、あまり出かけていない。
そこで両親の写真アルバムを整理している。
何冊もある昔の重くて厚いアルバムから、600枚程度を抜き出した。

そんな写真の中で、白黒の写真が新鮮に思えた。
去年の6月にこのブログで紹介した昭和36年発売のカメラ「Canonet初代後期」で
撮影したものと思われる。

20180628054915261.jpg 


下の写真は、1964年昭和39年のオリンピックのために整備された環状七号線である。
たぶん昭和38年ころだと思う。 僕が7歳のころ。

s-環七昭和30年代 


父が買ったばかりのカメラで撮ったものだろう。
左奥に「平和相互銀行」 右奥に「富士銀行」の看板がみえる。
雪印牛乳やパン屋、洋食屋の看板や、銭湯らしき屋根もみえる。

それにして自動車がほとんどない。
横断歩道じゃないところを普通に渡っている人も写っている。
また、空のなんと広いことか!

ただ空気は汚かったはずだ。
公害防止法が施行されたのは昭和43年だから。




[ 2019/04/12 15:15 ] その他 | TB(-) | CM(4)

屋上の散歩者


母は、ICUで酸素マスク、一進一退という感じ。
病院からの連絡があるかもしれないので、外出を控えている。
寒くて強張るので、あまり外出出来ないという面もあるけど。

我が家は国道に面していて、ビルやマンションが道沿いに立ち並んでいる。
それらがトンネル効果を生じて歩道に寒風を発生させる。
まさに風の谷である。しかも我が家側の歩道には陽が当たらない。

リハビリ散歩に出ようとすると寒風に右半身が強張り、
ロボットダンスを披露することになる。

でも歩かないと歩けなくなる…

20190106071305812.jpeg 

NHK-BS でお気に入りの「満島ひかり×江戸川乱歩」を年末に見ていて
江戸川乱歩の短編「屋根裏の散歩者」を連想した。
そうだ、屋上を歩いたらどうだろう。
我が家の屋上は、一日中陽があたり、しかも障害物はなくて手摺り付き。

という訳で、このところ気温が上がってくると屋上に上がって、
動物園のクマのように周期運動を繰り返している。
国道と反対側は見晴らしも良い。
ただ、隣のマンションの住民の視線がチョット気になるけど。


[ 2019/01/06 07:17 ] その他 | TB(-) | CM(4)

母が骨折! 改訂


父の急逝など、想定外がテンコ盛りの1年が終わろうという
2018.12.31 午前7時。

新聞を渡しに母の部屋がある階に行ったら、母が倒れていた!
意識はあるが「痛い。寒い。動けない。2時間前から」と顔面蒼白。
ベットから降りるときに腰から転落したようだ。
左足が不自然に曲がっていて、低体温…!

すぐに119。 救急車で搬送。

左大腿骨転子部骨折。
骨が脆い老人に多い脚の付け根の骨折とのこと。
元旦の朝8:30から手術する予定でしたが、
高齢のためか、骨折のショックか息が浅くなってICUへ。
酸素マスクを着用。

予断を許さない状態とのことで、当面手術は見合わせ様子を見ることに。
毎日15時にICUに行っています。
意識はあり、マスク越しに少し会話もできますが、
酸素吸入に伴う肺や食道、気管支、胃への負担に伴う出血、痰の停留など…
まさに一進一退で、医師からは、状態の急変もあり得るので
最悪の事態も覚悟しておくようにと言われました。

なんとも不安な年末年始となってしまいました。
今後、相続、事業承継の検討、父の墓石の設置などもしなくては。

新年早々、暗い話題で恐縮です。
という訳で、しばらくブログの更新はできないかもしれません。
たまに息抜きで更新するかも知れないけれど。

皆様にとって良い年でありますように!!





[ 2018/12/31 17:23 ] その他 | TB(-) | CM(4)

死んだ父のこと


先日89歳で亡くなった父の話で恐縮です。


20181004181538de6.jpeg 

父は7人きょうだいの末っ子として長野県の某市で生を受けた。
甘えん坊のガキ大将で、友だちがいじめらるとどんな年上でもやっつけに行ったそうだ。

大学進学を機に上京して、卒業後に建築資材販売業を起業した。
東京オリンピック、高度成長期の中で揉まれながら頑張ったが、
膝の故障もあり廃業してサラリーマンになった。
社長から中途採用の身分になり相当な苦労をしたようだ。

そんな父は、正義感が強く、喧嘩っ早く、人情家で、末っ子の甘えん坊で、
案外気が弱く、そして家族にはとても優しかった。

一方、長男の僕は、気が弱くてトロかったからか、小学生の頃に毎日イジメを受けていた。
辛い学校での時間が終わり、帰りの下駄箱に靴が無くて探してから帰る日々。
先生からも無視された。当然勉強もしなかったので成績はほぼオール1 。
それでも親には叱られなかったが、休むことはあまり許してくれなかった。
悪いことをすると叩かれたこともある。

6年生のとき担任が「中学からは特殊学級に行くよう手配中」と言ってきた。
それを聞いた父は鬼のような顔になって学校に行き、担任に
「本当の知恵遅れか他の問題で成績が悪いのかも分からない奴は教師をやめろ!」
と怒鳴りつけた。
おかげで無事に普通の中学校に入ることができた。

父の怒りが嬉しく、また中学校では教師にも友だちにも恵まれたので、勉強が楽しくなり、
入学時の1学期に最下位だった成績がみるみる上がり、それなりに自信もついた。
高校もそこそこの学校に入れて、大学にもいった。

先日、父の葬式の喪主挨拶のときに突然そのことがフラッシュバックした。
涙が溢れ出し、しどろもどろになってしまった。

認知症で暴言を吐くようになってからも、家族や親類が「元気か?」と聞いた父。
ある日突然目に光が宿り、こう言い始めた。
「俺はな、末っ子だったから両親に可愛がられたが殴られもした。
俺がいつかあの世に行ったとき、死んだ父さんと母さんに『良く頑張ったな』
と褒めて貰いたくて、これまで曲がりなりにも頑張ってきたんだ。」

父が49日に彼岸に渡ったときに、きっと岸辺に、父さんと母さんと、
半年前に一足早く旅立った兄さんが出迎えてくれて
「おー、来たか。良く頑張ったなぁ。偉かったなぁ」と褒めて貰うに違いない。

長文になりすみません。


[ 2018/10/03 17:12 ] その他 | TB(-) | CM(8)